雑記

大江広元は有能な官僚で実は幕府のナンバー2。子孫はあの戦国大名!

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をより面白く観るため、十三人の合議制のメンバーについて勉強していきたいと思います。

鎌倉幕府の将軍に次ぐナンバー2といえば執権の北条氏ですが、まだゴタゴタと争いの絶えないこの時期、将軍の次に朝廷からの官位が高くて一目置かれる存在だったのが大江広元です。幕府のナンバー2といっても差し支えないでしょう。

権力闘争で有力御家人がバタバタと失脚していくなか、大江広元はうまく生き延びていきます。頭が良く、下級貴族とはいえ地方武士だらけの集団の中では身分が高く、朝廷に独自の人脈も持っていました。

『鎌倉殿の13人』の第一次出演者発表で、大江広元は「頭脳で乱世を生き抜く官僚」と紹介されています。

学者の家系だが、子孫は有名戦国武将

大江は苗字ではなく姓なので、大江広元は「おおえのひろもと」と読みます。おおえひろもと、ではありません。

大江氏といえば学者の家系です。有名なのは大江匡房です。あとは大江匡衡(赤染衛門の夫)。平安朝の歌人、和泉式部も大江氏です。私は平安貴族が好きなので割と詳しいほうですが、3人しか思い浮かびませんでした。

あまり目立たない一族ですが、大江匡房は頑張りましたよ。赤染衛門のひ孫になりますが、官位は正二位権中納言と破格の出世を果たしているし、学者としてだけでなく歌人としても有名です。小倉百人一首にも選ばれています。兵法にも優れ、八幡太郎・源義家の師でもあったとか。

大江広元の出自は諸説あり

大江広元の出自ははっきりとはわかっていません。大江広元は当初中原姓を称していて、中原広元(なかはらのひろもと)と名乗っていたらしいです。

父親といわれている人物が三人います。

  • 藤原光能…正三位参議。後白河院近臣。『平家物語』によると平家追討の院宣を頼朝に取り次ぐため一役買ったとか。
  • 大江惟光…大江匡房の孫。紀伝道の大家だったらしい。(Wikipedia参照)
  • 中原広季…明法博士。

中原広季は養父で母親の再婚相手という説が有力なようです。

藤原光能が実父の場合、なんで大江姓を…となりますが、母親が大江匡房の孫だったともいわれています。

大江姓になったのは晩年のことで、『吾妻鏡』によると養父・中原広季に養育された恩はあるけれど大江家の行く末を憂慮して実父・大江惟光の姓を継ぐことを望んだそうです。

安芸毛利氏の祖

大江広元の四男・季光は父の所領のうち相模国毛利荘を相続し、毛利季光と名乗るようになりました。「毛利」は苗字で、本姓は「大江」です。

おお!毛利ですよ。この毛利氏の12代当主が毛利元就です。嫡男ではなく、四男の家系から大物登場。

元就の孫・輝元の代に本拠地が広島に移りましたが、「広島」の地名は大江広元から一字とって名付けられたという説があるそうです。

毛利家に「元」のついた名前が多いのも大江広元にちなんでいます。

鎌倉政権の頭脳として活躍

兄の縁で鎌倉へ下向

大江広元は1148年生まれ。源頼朝の一つ年下です。

学業に秀で、明経得業生(学生の中から成績優秀者のみに与えられる特待生の身分)となり、下級貴族として朝廷に仕えていました。

兄・中原親能が源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っていたため、その縁で広元も鎌倉に招かれます。

兄・中原親能も「13人」の一人。朝廷と幕府の折衝役として活躍。頼朝の二女・三幡の乳母夫。

中原公季の実子、あるいは外孫で養子になった(父は藤原光能で母が中原公季の娘)といわれている。

鎌倉幕府の行政長官となる

1184年に鎌倉へ下り、公文所別当に就任しました。公文所というのは文書管理や訴訟、財務を扱う行政機関で、別当は長官のような役職です。

1185年に源頼朝が従二位に任じられ公卿になると公文所は政所と改称。(政所は三位以上の公卿にのみ設置が許される)

政所設置は1191年説もありますが、いずれにしても大江広元が政所の初代別当となります。

『吾妻鏡』によると大江広元は様々な献策をし、源頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の策だとか。

朝廷との取次役

大江広元は源頼朝の腹心として朝廷との交渉役にあたりました。

当初はかつての上司だった関白九条兼実とつながり、その後は兼実の政敵である土御門通親と非常に親密な関係を結びました。

源頼朝は土御門通親と大江広元によって暗殺されたという説まであります。広元はあくまで鎌倉方の人間なので、そこまでの結びつきはなかったと思いますが…。

大江広元の嫡男・親広は土御門通親の猶子となりました。妻の竹殿は北条義時の娘です。

親広は承久の乱で上皇方について敗走。竹殿は土御門通親の四男・定通の側室になりました。

頼朝の死後は北条政子・義時に協力

頼朝の死後は有力御家人たちを滅ぼした北条氏が勢いを増し、大江広元と並んで政所別当に就任。執権として幕府の実権を握ります。

大江広元は北条政子・義時に協調して幕政に参与。

1221年の承久の乱では嫡男・大江親広が北条義時の娘婿であるにも関わらず朝廷側につきますが、広元は鎌倉方として積極的な京攻めを主張し幕府を勝利に導くのに貢献しました。

滅ぼされた人物たちとの関わり

大江広元には『吾妻鏡』に「成人してから後、涙を浮かべたことはありません」と自ら語ったという逸話があります。

情に流されない冷静な人物であったようです。

源義経

源義経は兄頼朝との関係が悪化したとき、「腰越状」と呼ばれる嘆願状を大江広元宛に出して仲裁を頼みました。

兄への服従の気持ちは変わらないとつづられた弁明書でしたが、結局義経は頼朝から許されることはありませんでした。

梶原景時

源頼朝の死後、頼朝腹心・梶原景時を弾劾する連判状が作成されました。御家人66名によるもので、景時、嫌われすぎですね~。

連判状を受け取った大江広元は平和的に解決したかったようで、しばらく二代目将軍・頼家に見せずに留めておきますが、和田義盛に激しく詰め寄られて将軍に言上。景時は追放され討ち死に。

和田義盛

鎌倉幕府創業の功臣の一人で侍所別当でもある和田義盛。

北条義時は権力独占のため、和田一族を滅ぼそうと企みます。大江広元は完全に義時側として協力しています。

和田一族は将軍御所、義時邸、広元邸を襲撃。

和田合戦(1213年)に勝利した北条義時は政所別当に加えて侍所別当を兼任することになり、名実ともに幕府の指導者となりました。

1216年に北条義時は従四位下となり父・時政の官位を超えますが、大江広元はさらに上の正四位下陸奥守で名目上は鎌倉幕府のナンバー2ともいえる存在でした。

他にもたくさんの身内や御家人を排除してきた北条氏ですが、優秀な文官だった大江広元は味方につけておきたい人物だったのでしょう。

さいごに

大江広元は鎌倉幕府の創設に武家ではなく公家として貢献しました。

家柄が何より大事な公家社会では生かせなかったであろう才能を、武家に仕えることによって遺憾なく発揮した、転職の成功例ともいえる人生ですね。

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なおこた
札幌在住の主婦。 転勤族の夫と小学生の息子との三人暮らし。 趣味は食べることと読書。 悩みは貯蓄。